最近、体にいいということである漢方のサプリメントを摂取しています。

直径3~4mmの小粒のサプリメントで、大びんの直径8cmくらいの口から掌の上に流し出すわけですが、12粒~16粒が1回の推奨摂取量。

最近慣れてきて、サッと掌の上に瓶から流し出すと1度でこの推奨摂取量を出すまでに私の「漢方薬出し技」は熟達しました。

そして不思議なことに10回中8回は掌のサプリメントがどういうわけか13粒になる。

けっこうすごいじゃねーか。

でも、どうしても13という数が不吉に思えてきて、1粒を減らすか増やすという余計な作業を行うのが日常になりました。

 

それにしてもなんで13粒が嫌なんだろう。ふと気づいて考えてみました。

そういえば「13という数は不吉」っていうのを常識だと思っていた。いつのまにか。

13日の金曜日、ゴルゴ13、アポロ13…13の忌数字を逆手に取った物語もあったり。

物心ついた時から13を避ける人たちに囲まれていて、13にまつわる不幸話をたくさん聞いていて。

理由はキリストさんの処刑台が13階段だったから。キリストさんの13番目の弟子が裏切り者だったから、っていう漠然とした知識しかない自分に気が付いたわけです。

日本では4=死、9=苦なんかが忌数字で、昔なんかは病院に4階と9階がなかったりしたもんです。(いまもそう?)

でも4とか9よりも13を避ける自分がそこにいたりして。

別にキリスト教徒でも西洋人でもないのになんで13を避けているんでしょうね。

 

調べてみると(っていうかWikipedia見ただけだけど)こんな理由もあるらしいんだけど…

「未知数」説
原初人間が身体で計算できた数は手指の10と両足の2、計12であり、それを上回る13は「不可能(未知)の数」であるから本能的に恐れたとする説。

「非調和な数」説
古代より暦の必要性から時間や方位などに六十進法が使われており、中でも60の約数の一つである12はそれらを構成する基準の数として、12か月や12時間、12方位などのようにしばしば用いられてきた。生活に広く根付いた基数の12に対し、12より一つ多く素数である13は、その調和を乱すものとして不吉な数と考えられた。

 

まあ、いずれにしても少なくとも僕の生活にはあまり関係のない話で。

なんでそんなこと…迷信…に縛られているんだろう。

迷信、って余計だなぁ、って。

迷信のおかげで行動が制限されたり、意味のないプレッシャーをかけられたりするわけで。

心理学的に言うと、こういう縛られるプレッシャーっていうのが人間の精神には負担になることが多いのです。

几帳面な人ほど心因性になりやすい、なんていうのもそういうことなんですよね。

 

昔のハワイでいえば、迷信が「カプ」っていうタブー、やってはいけないこと、規則みたいなものになる。

女性と男性が一緒に食事をすると悪いことが起きる。

身分が上の人(酋長とか)の影を踏んだらマナを汚したことになるから死刑。

などなどのカプがあった。つまり迷信が法律を形作っていたような感じ。

 

もちろん役に立つ迷信もあるわけです。

産卵時期の魚を取ってはいけない、とかいう理にかなったものもたくさんあった。

日本でいえば「~~をすると罰(バチ)が当たる」なんていうのは、人間の道徳や倫理・哲学を教えてくれるとても素晴らしいものである場合が多いわけで。

こういうものがなくなったら人間は終わってしまう気もする。

 

余計な迷信は人間をダメにする、理にかなった迷信がなくなったら人間はダメになる。

いやはや、むずかしいぞ、迷信。

 

縛られる、ということが人間の精神と行動にどれだけ無駄に作用するか、っていうことを考えると、自分にとって必要な迷信なのか、自分の撮って不必要な迷信なのかを見極める「自分自身の倫理・哲学感」をもたないといけないのだなぁ。

一度、自分が縛られている「迷信」が、自分にとって必要なものか必要でないものかを考えてみると、心が軽くなるかもしれません。