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3年前の大島渚氏葬儀の礼状にあった本人直筆のメッセージ。
私がもらったわけではないのですが、知人がいただいたのを見せてもらったのです。

あの当時は、この言葉がなんだかその時の自分の心に響いたんですよね。グッときた、というか。

最近、自分の運命を
「人から与えられるもの」
「天が決めるもの」
と思っているのか、思ってもいないのか、自分発信で行動しない人が増えているような気がします。自分も含めて。

あるハワイ伝統医学の達人のワークショップで通訳をしていた時に、生徒さんに向かって彼が言った言葉を思い出します。

「なんで君たち(日本人)は自分から行動しないんだい?」

ロミロミを習いに来るほとんどの日本人が、言われたことをやるだけ。
言われたことは器用にこなすんだけど、応用が利かないし、新しいものを自ら学ぼうとすることがない。
できないでいることについては「だって教わっていないんだもん」で終わり。

ロミロミっていうのは日本でいうと落語と似ています。
師匠の技をこぞって盗む。これが基本。

ですから「学ぶ」ということは「先生が生徒に伝える」のではなく、「生徒が先生から引き出す」のが常識なわけです。

ある東大の先生に言わせると、日本の教育は「グライダー教育」なんだそうです。
自分で飛び立つことを教えない。
先生が手取り足取り手伝って飛ばしてあげて、そのあとは個人の自由。
だから飛び続けることも、着陸することも苦手なんだそうです。

自分も含めて、恵まれ過ぎているんだな、と思います。

別に大きなクルーザーや別荘を持っているわけじゃないけど、ボーっと生きていても食いつないでいけないことはないわけで。

時々「なんとなく」生きていることにいつの間にか埋没してしまっている自分に気づいたりします。
この言葉と出会ってから3年。ちょっと埋没しかけているかも。

自ら燃える存在にならなければ。

調べてみると冒頭の言葉は、明石海人という方がハンセン病と闘いながら残した「白描」という歌集の序文にある言葉です。
歌の方は昔の文体で、なかなかおどろおどろしいところもあったりしてなかなか読みにくい。
ただこの序文が、いまの健康でいて何不自由ないはずの自分にとって、心の奥底を奮い立たせてくれるものだったので、ここに残しておきたいと思います。


白描 明石海人

序文
癩は天刑である
加はる笞(しもと)の一つ一つに、嗚咽し慟哭しあるひは呷吟(しんぎん)しながら、私は苦患(くげん)の闇をかき捜って一縷(いちる)の光を渇き求めた。
― 深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも光はない ―
そう感じ得たのは病がすでに膏盲(こうこう)に入ってからであった。
齢(よわい)三十を超えて短歌を学び、あらためて己れを見、人を見、山川草木を見るに及んで、己が棲む大地の如何に美しく、また厳しいかを身をもって感じ、積年の苦渋をその一首一首に放射して時には流涕し時には抃舞(べんぶ)しながら、肉身に生きる己れを祝福した。
人の世を脱(のが)れて人の世を知り、骨肉と離れて愛を信じ、明を失っては内にひらく青山白雲をも見た。
癩はまた天啓でもあった