寒い。ここ数日、ほんものの冬になってきました。車の温度計は-1℃。そりゃ寒いわけだ。
-20℃のスウェーデンに住んでる友人からは笑われるだろうが、-1℃だって寒いものは寒い。
まだ空が暗い朝6時には(遅くとも)家を出なければいけない犬の散歩は、戦いへの出陣と一緒。冬の痛さから身を守るためには戦いに出るレベルの完全防備が必要なのです。
頭はニット帽子(最寒のときには北の国からのゴロウさん的な耳隠しのある帽子になります)、マフラー、極暖ヒートテックに山用の分厚いダウン、裏フリースのパンツ。
そんな寒さとの戦いの中で、太陽が海から顔を出す瞬間はとてもホッとする瞬間でもあります。特に寒い冬には。
太陽が頭を出す瞬間、空はパアーッと明るくなり、フワッとした暖かさが空気いっぱいに広がっていく。
かなり古い表現だが加山雄三氏の「幸せだなぁ」というセリフが頭をよぎったりして。
そんな中で、ふと思ったのでした。
「そういえば最近、『火』を見なくなったな」
と。
今朝はこの「火」について思いをはせたのでした。
つい最近まで、石油ストーブにガスコンロ、ちょっとお金持ちの友人の別荘には暖炉があったり、田舎のばあさんのところに行くといたるところでたき火で焼き芋を作っていて、火はすごく身近なものでした。
それが今やエアコン暖房、床暖房にIHコンロ、たき火をするおじいさんの数もめっきり減っていたりして。
火を見る機会は極端に少なくなってきたような気がします。
火。
人間に明るさと温かさを与え続けて50万年と言われているそうです。
はじめのうちは落雷や火山で自然発火した火を大切に絶やさないように守り続けていた、とオリンピックの聖火みたいな話もあったりして。
火山の噴火や火事といった災害をもたらすのも火、明るさと温かさ、そして肉や魚を焼き、獣から守ってくれる人間として生きていくのに欠かせないのも火、っていうわけなんですな。
人類の火への想いとは、こういった畏怖と愛ではないでしょうか。
この想いは日本人やハワイアンが今でも心の中に持っている自然への気持ちと似ているのかもしれません。
だからこそハワイアンに一番人気?の神様はペレ、火の神なのかも。
今でも噴火を続けているキラウエア火山(ハワイ島)の火口に住んでいる火の神ペレは、火山に対する人々の畏怖心と、それとは裏腹な憧れにも似た愛情を集めています。
考えてみると、人間を取り巻く環境というのはそういうものなのかもしれませんね。
魚、という恵みを与えてくれる海は津波で人を襲い、
雨、という恵みは洪水や地滑りで人を襲い、
大地、というなくてはならない恵みは地震で人を襲う。
それだけではなくて、
自分にとって不可欠だった夫(妻)が、いつの間にか敵対する存在になっていたり、
自分に何でも与えてくれていたお金が、いつの間にか自分を追い込む存在になっていたり。
「無くてはならないものは、時にはとても怖いものにもなる」
っていうのが世の常なんでしょうね。
火が明るさと暖かさを与えてくれていた時代は、おそらく感動のハードルが低かった。
たとえば、どんなに寒いときにでもたき火の周りに人が集まり、寄り添っていた。
でも、明るさや温かさを電気が簡単に作ってくれていると(本当は簡単に作ってくれてるわけではないんだけど)、感動の矛先がテレビやスマホやゲームの画面の中に閉じ込められている、みたいな。
文字通り、温もりが失われている、みたいな。
ありがたみ。
これを忘れてしまうと、人の温もりや感動も忘れることになってしまうのかもしれません。
畏怖があってこその、ありがたみ。
火に、自然に、そして妻に、家族に、犬に、友人に、ありがたみを感じていたい、と思った朝なのでした。